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柳橋駅(やなぎばしえき)は、かつて名古屋鉄道(名鉄)一宮線に存在した駅である。名古屋鉄道のターミナル駅の一つで、名古屋駅のやや南東に存在した(現在の名古屋市中村区名駅4丁目23番付近)。 柳橋駅があった当時は、現在の犬山線岩倉駅以南も一宮線とされていたため、柳橋駅も一宮線の駅とされていた。柳橋駅が廃止された時(すなわち東枇杷島駅 - 新名古屋駅間の開業時)に一宮線の岩倉駅以南が犬山線に編入されている。 == 概要 == 名古屋鉄道の前身となる名古屋電気鉄道は、当初市内線として名古屋市における路面電車を運営していたが、明治末期から市街北部の押切町駅を起点に「郡部線」という、郊外路線(後の名古屋本線、津島線、一宮線、犬山線など)を建設するようになった。 しかし、押切町駅発着では名古屋市中心部へ向かうのに市内線への乗換えを要し、不便でもあった。そのため名古屋電気鉄道では郡部線電車を市内線へ乗り入れさせ、利便性を上げることを目論んだ。その際、国鉄名古屋駅近くの柳橋交差点付近、現在三菱東京UFJ銀行柳橋支店が置かれている付近に、市内線の線路を引き込む形で郡部線電車のターミナルとして設けられたのが、この柳橋駅である。駅舎は木造2階建てで、バルコニーもあった。なお、押切町 - 柳橋間にはいくつもの停留場があったが、郡部線の電車はこの区間をノンストップで運行した。 だが、市内線の運賃値下げを求める市民運動が発生し、その過程で一部の人間が暴徒化して放火・破壊活動を行ったため(電車焼き討ち事件)、柳橋駅は開設翌年に駅舎が焼失するという憂き目にも遭った。 その後、同社は焼き討ち事件の影響もあって市内線を名古屋市へ移管(名古屋市電となる)し、郡部線を新設会社の(旧)名古屋鉄道へ移管した上で解散した。しかしながら便宜上、市営化後も柳橋駅までの乗り入れは継続された。この際、柳橋 - 押切町間は名鉄の借用区間とされ、同区間を名鉄の電車で移動する際の運賃は名鉄のものが使われた(現行の鉄道事業法でいう所の第二種鉄道事業者に近い)。 1922年(大正11年)、2代目となる鉄筋2階建ての駅舎が竣工。本社もここに移転した。1932年(昭和7年)には、ここを起点として鵜沼駅(新鵜沼駅)から高山本線へ乗り入れ、下呂駅へ向かう週末温泉列車(名鉄特急・名鉄キハ8000系気動車を参照)も設定された。 また、(旧)名古屋鉄道が名岐鉄道になった後の1935年(昭和10年)に名岐線(今の名古屋本線東枇杷島駅以北)が開業し、新製車のデボ800形(後のモ800形初代)を用いて特急・急行電車の運転が開始されたが、これは車体規格が大型であって市電に乗り入れる事ができなかったため、押切町駅を発着駅とし、同駅で柳橋駅発着の電車に接続させるようにしていた。 名岐線開業まもなく、名岐鉄道は愛知電気鉄道(愛電)と合併し、現在の名古屋鉄道が発足する。名鉄では、愛電が有していた神宮前駅をターミナルにして名古屋南東部へ向かう路線(名古屋本線神宮前以東・常滑線など)と、名岐鉄道が有していた路線の直通運転を目論むようになり、東海道本線に並行して東枇杷島駅 - 新名古屋駅(後の名鉄名古屋駅) - 神宮前間に新線を敷設することにした。その過程で、東枇杷島駅(この時、南へ移設) - 新名古屋駅間がまず1941年(昭和16年)に開業したため、押切町駅や柳橋駅、押切町駅 - 東枇杷島駅間にあった平野町駅は廃止された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳橋駅 (愛知県)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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